山形の豊かな風土が生み育てた
「山形鋳物」950年の歴史
「山形鋳物」950年の歴史
全国でいちはやく国の伝統的工芸品指定を受けた山形鋳物。
その起源はおよそ950年前の平安時代に遡ります。
その起源はおよそ950年前の平安時代に遡ります。
戦に従った職人が発見した山形の砂
山形鋳物の起源は、東北地方で前九年の役が起きた平安後期、源頼義軍と一緒に山形にきた鋳物職人が、馬見ヶ崎(まみがさき)川の砂や付近の土が鋳物の「型」に適することを発見し、この地に留まって鋳物づくりを始めたことによります。その後、斯波兼頼(しばかねより)が山形城を築いた南北朝時代に、金具を鋳物師に作らせた記録が残されており、当時から小さいながらも産地が形成されていたことがうかがえます。
最上義光による職人優遇策
江戸時代に入ると、山形城主の最上義光(よしあき)は、商工業の発達を目的に城下町を大きく再編。馬見ヶ崎川の北側に、火を扱う鍛治町と銅町を置き、他の職人町と同様に人足役を免除して優遇しました。銅町の鋳物職人は、こうした土壌のもと、日用品や仏像を生産。出羽三山参りが全国的に流行すると、参拝者のお土産品として人気を博すようになり、産地の規模が拡大していきます。
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鋳造技術の発展
鍋釜などの日用品や仏像を生産する一方で、江戸中期には仏像・梵鐘・燈篭などの大きな鋳物を造る技術も確立しました。明治期に入ると、鉄瓶や茶の湯釜などの美術工芸品も作られるようになります。また、大正期以降は全国的に機械化が進んだことで、鋳造機械の分野が飛躍的に発展。銅町は、機械分野と工芸分野が同居する産地と変化しました。
銅町が産んだ鋳物の名工
こうした長い歴史の中で、山形鋳物のメッカ・銅町は多くの名工を輩出してきました。江戸中期における梵鐘の庄司清吉と佐藤金十郎、明治期における灯籠の名工・小野田才助、人間国宝となった茶の湯釜の高橋敬典(けいてん)など、各時代の職人たちは伝統に裏づけされた技術でそれぞれに山形鋳物の名声を高めてきました。なかでも茶釜や鉄瓶、花瓶、鉄鍋といった生活工芸品は、昭和50(1975)年に国の伝統的工芸品指定を受けています。
工芸品、美術品、建築部材、機械部品
多様化した鋳物の世界
多様化した鋳物の世界
工芸品が中心の銅町と、機械製品が中心の新しい鋳物町。
山形鋳物はふたつの生産地に拡大して、多様な鋳物を創造しています。
山形鋳物はふたつの生産地に拡大して、多様な鋳物を創造しています。
新しい鋳物町(西部工業団地)の誕生
機械分野と工芸分野が共存していた銅町ですが、機械鋳造が発展した昭和40(1965)年代に入ると、工場敷地の拡大や公害問題の発生などで、銅町に再編成が迫られます。そこで昭和48(1973)年、主に機械鋳造を行う工場が、新しくできた西部工業団地に移転。山形鋳物は銅町と西部工業団地、別名「鋳物町」で生産されるようになりました。
多ジャンル製品の生産地
こうして現在は、工芸品や美術品、建築部材、機械部品などの多ジャンル製品がふたつの地域で生産されています。なかでも機械鋳造の生産高は、山形鋳物全体の8割強を占め、全国的なシェアも順調に拡大。茶の湯釜や鉄瓶などの工芸品は「薄手で繊細な肌合い」と称され、茶道の世界や趣味人たちから高く評価されています。その一方で、江戸中期から続いてきた梵鐘づくりは、天童市に工場を構える「渡邊梵鐘」だけとなりました。